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近年、一部の人がこう主張します。
「ベトナムのゲリラ戦術やクチトンネルは、日本軍が教えたものだ」
一見もっともらしく聞こえるかもしれませんが、これは歴史を無視した極端な単純化、または意図的な歪曲です。
ベトナムには何世紀にもわたる独自の戦争経験があり、外国からの侵略に対抗する戦術は、遥か昔から自らの手で築き上げられてきました。
1/クチトンネルの本当の起源
有名な「クチトンネル」は、アメリカとの戦争(1960年代〜)だけでなく、**フランスとの独立戦争(1946〜1954年)**の時代からその原型が存在していました。
当時、農民や抵抗組織は、武器や食料を隠し、追跡を避けるために小さな隠れ穴や地下通路を掘っていました。これらは地元の地形や土質を熟知した人々が自力で作ったもので、日本軍の占領(1940〜1945年)とは時期的に重なりません。
その後、アメリカとの戦争が激化すると、これら既存の地下施設を繋ぎ合わせ、拡張し、全長数百キロに及ぶ大規模な地下都市へと発展させました。
2/残留日本兵は実在したが、影響は限定的
1945年の日本降伏後、インドシナには約700〜1000人の元日本兵が残留しました。彼らの中には、ベトミン(ベトナム独立同盟)に参加し、武器の扱いや軍事訓練に関わった者もいました。これは歴史的事実であり、否定はできません。
しかし、影響力は過大評価すべきではありません。
当時のベトナムはフランスとの第一次インドシナ戦争を戦っており、主要な戦術や指揮はすでにベトナム人指導部のもとで行われていました。さらに、日本は戦前・戦中に枢軸国=ファシズム陣営に属し、敗戦後は資本主義陣営寄りと見なされていたため、冷戦構造が強まる中でディエンビエンフーの戦い以前には多くの残留兵が前線から外されました。
つまり、残留日本兵は存在したが、その人数・活動期間・政治的制約を考えれば、ベトナムの勝利や戦術の決定的要因とは言えません。
3/ゲリラ戦はベトナム固有の伝統
ベトナムの戦術の核心は、古代からの戦争経験に基づいています。
その代表例が、13世紀における元(モンゴル)帝国との三度の戦いです。
- 第一次侵攻(1258年):元軍は大軍で侵入したが、ベトナム軍は首都を一時放棄しつつ敵を引き込み、補給線を断ち、疫病と疲弊で撤退させた。
- 第二次侵攻(1285年):チャン・フン・ダオ将軍が奇襲と地形を利用した戦法を駆使し、決戦のバクダン河口で大勝。
- 第三次侵攻(1287〜1288年):補給艦隊を全滅させ、バクダン河で杭打ち作戦を用いて撃破。元軍は再び撤退。
これらの勝利は、圧倒的強国に対しても地形利用・持久戦・補給線切断といった戦法で勝利できることを示しました。これこそ、後世のゲリラ戦の源流と言えます。
4/なぜ「日本が教えた」説が出回るのか
この説は、日本の影響を強調したい一部の人々が好む物語ですが、史実と時期が一致しません。
クチトンネルは日本軍がいなくなった後に形成され、ゲリラ戦術は数百年の歴史を持ち、さらに残留日本兵の活動は期間・規模ともに限定的でした。
5/結論──戦い方も独立も、自らの力で築いた
ベトナムは、元モンゴル帝国、明、清、フランス、アメリカといった大国を相手に何度も戦い抜いてきました。その中で培われた戦術や知恵は、日本軍がわずか数年で教えられるようなものではありません。
残留日本兵の存在は事実ですが、それをもって「日本が教えた」とするのは、歴史の全体像を歪めることになります。ベトナムの戦い方は、何世紀にもわたり培われてきた自国の経験と知恵によるものです。