「郷に入れば郷に従え」──日本でよく聞く言葉だ。
直訳すれば、「その土地に入ったら、その土地のやり方に従え」という意味。
一見もっともらしく、異文化の衝突を避けるための知恵のようにも思える。
しかし、実際の使われ方を見ていると、少し違和感を覚えることがある。
「ここは日本なんだから、日本のやり方に従え」
「日本に来たなら“郷に従え”でしょ?」
──こうした言葉の裏には、時に「異なる文化を受け入れたくない」という防衛反応が潜んでいる。
つまり、「郷に従え」が“思いやり”ではなく、“同化の強制”になってしまうのだ。
日本の「郷に従え」:秩序を守る知恵か、それとも圧力か
日本社会では、「郷に従え」は秩序を保つための暗黙のルールとして機能している。
マナーや時間、挨拶、空気の読み方まで──細部にこだわる文化があるからこそ、
「郷に従う」ことは一種の“協調の美徳”とされてきた。
しかしその反面、他者が“郷”に完全に馴染めないとき、
「なぜ合わせないのか」「ルールを守らない」と排除の力が働いてしまう。
特に外国人にとって、それは“同じ人間として認められない壁”にも感じられることがある。
ベトナムの「郷に従え」:むしろ「郷が合わせに行く」柔軟さ
一方、ベトナムでは「郷に従え」に相当する表現はほとんど使われない。
むしろ、**「郷が外国人に合わせに行く」**くらいの柔軟さがある。
たとえば、日本人がベトナムで生卵かけご飯を食べようとすると──
「わぁ、日本風ね。私もやってみたい!」
と、すぐに興味を示し、面白がって取り入れようとする。
外国のやり方を“異質なもの”ではなく、“新しい刺激”として受け止めるのだ。
時には、「外国のほうがカッコいい」と思えば、自分たちのやり方をあっさり変えてしまうこともある。
それが良い悪いは別として、変化を楽しむ姿勢はベトナム社会の大きな特徴だ。
「従う」ではなく「認め合う」へ
「郷に入れば郷に従え」という言葉は、確かに秩序を守る上では重要だ。
しかし、異文化社会において本当に必要なのは、
“従う”よりも“認め合う”こと。
日本が持つ「調和を重んじる力」と、
ベトナムが持つ「柔軟に受け入れる力」。
その両方が交わる場所にこそ、
真の国際共生が生まれるのではないだろうか。
📘この記事は、書籍『異文化の鏡に映る日越の日常40話』の第5話をもとに再構成した内容です。





















