「日本人は親切だ」──
私は、ベトナムにいる頃からこの言葉を何度も聞いてきました。
実際に日本で暮らすようになってからも、その評価が完全に間違っているとは思いません。ただ、生活を重ねるうちに、その「親切」が前提としている距離感や考え方に気づき、私の中の印象は少しずつ変化していきました。
日本に来る前のイメージ
まだ日本に行ったことがなかった頃、私の中で「日本人=親切」というイメージはかなり強いものでした。ベトナムではこの印象が広く共有されており、日本を訪れたことのある人たちからも、よく似た体験談を耳にしていました。
道に迷ったとき、知らない人がわざわざ目的地まで案内してくれた。
重い荷物を持っていると、黙って手伝ってくれた。
テレビのドキュメンタリーや観光パンフレットでも、日本人は礼儀正しく、困っている人を放っておかない国民として紹介されています。そうした情報に触れるうちに、私は「日本に行けば、きっと誰もが自然に助けてくれるのだろう」と信じるようになっていました。
実際に暮らして感じた違和感
日本に来たばかりの頃、その期待が裏切られたわけではありません。駅で切符の買い方が分からず立ち尽くしていたとき、近くにいたおばあさんが声をかけてくれたことがあります。スーパーで商品を落としたときも、すぐに誰かが拾って渡してくれました。
そうした場面に触れるたびに、「やはり日本人は親切だ」と感じ、素直に嬉しくなりました。
しかし、生活に慣れていくにつれて、別の感情も芽生え始めます。重そうなスーツケースを持っていても、誰も声をかけてこないことがある。エスカレーターが故障し、階段を使わざるを得ない状況でも、周囲の人は視線を逸らし、そのまま通り過ぎていく。
ある日、その違和感を同僚に話したところ、こんな答えが返ってきました。
「声をかけたら迷惑かもしれないし、断られたらお互い気まずいでしょう?」
そのとき初めて、私は気づきました。日本の「親切」は、必ずしも“積極的に助けること”と同義ではないのだ、と。
「親切」の定義が違う
このズレは、文化ごとに異なる「親切」の定義から生まれています。ベトナムでは、困っている人を見かけたら、まず手を差し伸べるのが自然です。たとえ断られても、「助けようとした気持ち」自体が肯定されます。
一方、日本では「相手の領域を尊重すること」が礼儀とされ、必要以上に踏み込まないことが思いやりと考えられています。そのため、助ける前に「本当に助けが必要なのか」を慎重に見極めようとします。
さらに、日本では親切が「役割」の中で発揮される場面も多く見られます。駅員や店員など、立場が明確な人は驚くほど丁寧に対応しますが、一般の人が見知らぬ相手に声をかけることには、心理的なハードルが存在します。
結果として、日本の親切は「不必要な干渉を避ける親切」になりやすいのです。
気づいてから変わったこと
この違いを理解してから、私の受け止め方も変わりました。「助けてもらえなかった=冷たい」と短絡的に判断することはなくなり、「距離を尊重してくれているのだ」と考えられるようになりました。
同時に、本当に困ったときには、自分から声をかけるようにもなりました。「すみません、少し助けてもらえますか?」と一言伝えるだけで、多くの場合、相手は快く応じてくれます。
日本の親切は、静かで、控えめで、待つことが前提になっている。そう理解すると、以前よりもずっと楽に、この社会と付き合えるようになりました。
本記事は、拙著『私の日本観とその変化』第2章の内容をもとに、ブログ向けに再構成したものです。
本書には、私が日本で20年以上暮らし、働き、子育てをし、社会と向き合う中で感じてきた、日本とベトナムの価値観の違いが数多く収録されています。
日本人にとっては、自国を外から見つめ直すヒントに。
外国人にとっては、日本社会を理解するための手がかりに。
どちらの立場にも、新しい視点を提供できる一冊になっています。



















