Contents
1. はじめに
インターネット上では「ベトナムのゲリラ戦は残留日本兵が教えたものだ」という説を目にすることがあります。
しかし本当にそうでしょうか? 本記事では、古代から現代に至るベトナムの戦争史を振り返り、ゲリラ戦がいかにベトナム独自の伝統として発展してきたかを整理してみたいと思います。
2. 古代からの戦い方
ベトナムの戦術は外敵との戦いの中で磨かれてきました。
- 元寇撃退(13世紀)
チャン・フン・ダオ将軍は「焦土作戦」を行い、補給線を断ち、待ち伏せでモンゴル軍を疲弊させました。 - 明の侵攻(15世紀)
レ・ロイ率いるラムソン蜂起では、奇襲や待ち伏せを繰り返し、少数兵力で大軍を撃退しました。
こうした戦術は「地の利を生かした消耗戦」として受け継がれ、ベトナム戦史の基盤となりました。
3. 近代の独立運動とゲリラ戦
19世紀末から20世紀初頭、フランス植民地支配に対抗する運動が起こります。
- カンヴオン運動やイェンテ蜂起では、農村を拠点にした遊撃戦が展開されました。
火力や兵力で劣る側が、地元住民の支援と地形の活用で戦う──これこそがゲリラ戦の基本でした。
つまり、ゲリラ戦は近代以前からすでに培われていたのです。
4. 抗仏戦争前夜(1930–1945)
1930年2月3日、ベトナム共産党が設立。1941年5月19日にはベトミンが結成されました。
ホーチミンを中心とする指導部は外交を重視しつつ、早くから軍事においてもゲリラ戦の重要性を理解していました。
ホーチミンは国民に向けて「フランスと日本を追い出すためにゲリラ戦を活用せよ」と呼びかけ、1941年には『ゲリラ戦法』という著作も残しました。
5. 抗仏戦争(1946–1954)
第二次世界大戦後、ベトナムはフランスとの独立戦争に突入します。
ベトミンは「三つの軍」(正規軍・地方軍・村落のゲリラ)を組み合わせ、フランス軍を各地で疲弊させました。
道路や橋梁の破壊、小規模な夜襲、農村に根ざした補給網──これらはすべて民衆の支援によって成立しました。
1954年、ディエンビエンフーの勝利でフランスを撤退させますが、その背後には長年のゲリラ戦の積み重ねがありました。
6. 抗米戦争(1955–1975)
アメリカとの戦争でもゲリラ戦はさらに発展します。
- クチの地下トンネルは、村全体を要塞化した象徴的な例。
- ホーチミンルートは、補給とゲリラ戦を支える生命線。
- 落とし穴や竹槍の罠は、低コストで大きな効果を発揮しました。
アメリカの圧倒的火力に対抗できたのは、「戦争を人民化する」という独特のゲリラ戦術があったからです。
7. ベトナム独自の発展
中国も「人民戦争」を唱えましたが、ベトナムのゲリラ戦はより柔軟でした。
- 正規軍とゲリラを組み合わせる「二重構造」
- 地域や地形ごとに戦術を変える適応力
- 村人・農民が戦士と生活者を兼ねる「一体化」
これらは他国にはないベトナム独自の発展形でした。
史料によれば、ホーチミンは中国・ロシア・フランスなどの戦術を学びつつも、それを柔軟にベトナム流へと適用し発展させたことがわかっています。
8. 結論
ベトナムのゲリラ戦は古代から現代まで脈々と受け継がれた戦い方であり、日本兵が「教えた」ものではありません。
残留日本兵が存在し、一部が協力したことは事実ですが、主役は常にベトナム人自身でした。
彼らが協力する以前からホーチミンはゲリラ戦法の普及に尽力しており、その後の抗仏・抗米戦争を経て、独自のベトナム型ゲリラ戦へと結実したのです。
歴史を理解するためには、神話や誇張ではなく、この長い伝統に目を向ける必要があります。