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今日、SNS上で「豪州で博士号を取得した」と自称する人物とのやり取りがあった。
一見すると立派な肩書きだが、発言内容をよく読むと、論理・認識・文化理解のすべてにおいて驚くほど初歩的な誤りが見えてくる。
今回はそのやり取りを題材に、彼の「博士号」とは何を意味するのかを改めて考えてみたい。
🧩 1. 論理的誤謬 — 全称命題の誤用
彼の主張の根幹はこうだ。
「ベトナムは共産主義国家である」→「ゆえにベトナム人は共産主義者である」
「共産主義者であることを公言できないのは、自信がないからだ」
この論理展開、中学生レベルの三段論法でも誤りだと分かる。
国家体制と個人の思想は同一ではない。
「資本主義国に住んでいる=全員が資本主義者」ではないのと同じだ。
つまり、彼は最初から「論理の出発点」を誤っている。
これは博士号を持つ者の発言としては、あまりに稚拙だ。
🧠 2. 概念の混同 — 政治体制と思想信条
さらに彼は、「共産主義」という政治体制と「共産主義思想」という個人信条を混同している。
体制は制度であり、思想ではない。
これを混ぜると、あらゆる議論が迷走する。
「共産主義国家の国民は全員共産主義者だ」という前提に立てば、
世界中の複雑な政治的現実を一切説明できなくなる。
概念を整理できない博士号は、論文以前の問題である。
🌏 3. 文化的無知 — colonial mindset の再現
発言の根底には、いわゆる植民地主義的な発想が見える。
「西側諸国が正しい」「他国は未熟だ」と決めつける態度だ。
東南アジアの文化や政治を知らずに「共産主義だから悪い」と断じるのは、
知性ではなく無知の誇示である。
もし博士号が本物なら、世界理解の入り口くらいは通っていてほしい。
🧱 4. 論点のすり替えと人身攻撃
彼は議論の内容には触れず、
「あなたは共産主義者だ」「自信がない」などと個人攻撃にすり替えている。
これは“Ad hominem(人身攻撃)”と呼ばれる典型的な論理的誤謬だ。
論理で勝てない人が、人格で攻撃する。
SNSではよくある光景だが、博士を名乗る者がそれをやるのは滑稽である。
🎓 5. 博士号とは「知識量」ではなく「思考の質」
博士号とは、知識をどれだけ持っているかではなく、
それをどう整理し、どう他者と対話できるかを示す資格だ。
他者を見下ろし、思想を一方的に押し付ける態度は、
学問の世界では「最も恥ずべき姿勢」とされる。
肩書きは“学び”の証明ではなく、“学び続ける姿勢”の象徴である。
その意味を忘れた瞬間、博士号はただの飾りにすぎない。
💬 結論:知性とは、肩書きではなく姿勢にある
今回のやり取りから見えてくるのは、
「論理を知らず、文化を理解せず、対話を恐れる“自称知識人”」の典型である。
博士号を取得したことよりも、
博士号の意味を理解していないことの方が深刻だ。
本当の知性とは、
他者を理解しようとする努力の中にある。
そしてそれこそが、学ぶ者の本来の誇りである。



















