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第二次世界大戦が拡大し、アジア太平洋地域全体が戦火に巻き込まれていた時期、
ベトナムを含むフランス領インドシナも例外ではありませんでした。
1940年、日本軍は南方進出政策の一環としてインドシナ半島に進駐しました。
当時の公式説明や一部の現代人の見解では、これを「フランスからの解放」と呼ぶことがありました。
しかし、その実態はまったく異なっていました。
それはベトナム人に自由と独立をもたらす「解放」ではなく、
既存の植民地支配を引き継ぎ、さらには自らの利益のために支配構造を強化する行為でした。
この期間、ベトナム人はフランスと日本という二つの支配者の下で、
搾取と圧迫を二重に受けることとなったのです。
1. 日本とフランスの「共同統治」
1940年、日本軍はフランス植民地政府と協定を結び、
- 日本はインドシナに駐留し、鉄道・港湾・資源などを利用できる権利を得ました
- フランスは行政機構を維持し続けました
という形で、ベトナムは二重支配の状態に置かれました。
この結果、
- 植民地行政(フランス)と軍事支配(日本)が同時に存在しました
- 石炭・ゴム・米などの資源は二重に徴発され、民衆生活はさらに困窮しました
これは「解放」ではなく、植民地を分け合う行為に過ぎませんでした。
2. 1945年3月9日のクーデターは「奪取」であって「解放」ではない
終戦が近づいた1945年3月9日、日本はインドシナでフランスに対してクーデターを起こしました。
これを「フランスを追い出してベトナムに独立を与えた」と解釈する声もありましたが、現実は異なっていました。
- 日本はフランス軍を武装解除し、植民地支配を独占するために動きました
- トラン・チョン・キム内閣を樹立しましたが、それは実権を持たない傀儡政権に過ぎませんでした
- 軍事・外交などの重要決定は依然として日本の手に握られていました
つまり、これはフランスから植民地を奪い取った行為であり、解放とは言えませんでした。
(日本によるベトナム占領(1940–1945年)についてのFAQも参考に)
3. 1945年の飢饉 — 支配の残酷な証拠
もし日本が「解放者」であったなら、なぜ1945年に数百万人ものベトナム人が餓死したのでしょうか?
原因は日本の戦時政策にありました。
- 北部では米作からジュートやヒマなど軍需作物への転換を強制しました
- 米は徴発され、日本軍の戦線へ送られました
- 戦争の影響で輸送路が遮断され、南部の米が北部へ届かなくなりました
この結果、約200万人が命を落としました。
これは偶然ではなく、占領政策の直接的な帰結でした。
4. 「すでにフランス領だったから侵略ではない」という詭弁
「ベトナムはすでにフランスの植民地だった。だから日本は侵略していない」という主張は成り立ちませんでした。
- 民族がすでに植民地状態にあっても、当人たちの意思を無視して支配権を行使すれば、それは侵略です
- 日本は自主権を与えるどころか、フランスに代わって支配を行いました
- フランスが先に侵略していた事実は、日本の行為を正当化する理由にはなりませんでした
5. 結論:歴史を正しく見つめ、誤った「感謝」を求めない
1940〜1945年の日本の存在は、ベトナムにとって自由と独立をもたらすものではありませんでした。
それは搾取と圧政、そして人道的悲劇を伴った暗黒の時代でした。
したがって、当時の日本の行動をもって「解放」と呼び、
ベトナム人に感謝を求めることは、
あたかも盗人を追い払った強盗に感謝しろと言うのと同じくらい、不条理で理に反するものです。
ゆえに、ベトナム人に「ありがとう」と言わせるべきではありません。
出典・参考文献(英語・ベトナム語)
- David G. Marr, Vietnam 1945: The Quest for Power, University of California Press, 1995.
- Peter Neville, Britain in Vietnam: Prelude to Disaster, 1945–46, Routledge, 2007.
- Christopher Goscha, Vietnam: A New History, Basic Books, 2016.
- Nguyễn Văn Khoan, Lịch sử Việt Nam 1930–1945, NXB Chính trị Quốc gia, Hà Nội, 2001.
- Phạm Hồng Tung (chủ biên), Lịch sử Việt Nam tập 10: 1930–1945, NXB Khoa học Xã hội, Hà Nội, 2013.