田中社長は、若い頃は政治や哲学にどっぷり浸かり、「政治家か研究者になるぞ!」と燃えていた人だ。勢い余って日本共産党に入党したものの、理想と現実のギャップに打ちのめされ、脱党。その後は研究の道も挫折し、2,000冊の本を全部手放して農業一本に。
そんな社長、普段から「俺は昔、本もたくさん読んでたんだぞ」とか「本気出してたら市長かノーベル賞だ」と冗談めかして語る、ちょっと面倒くさい自称・知識人である。
さて、人手不足の農園に、ある日FAXで届いたベトナム人技能実習生の紹介広告。営業マンの「社長なら日本語も教えられますよ」の一押しで採用を決意。そして半年後、ベトナムの田舎からタン君がやって来た。日本語は苦手だが、人柄はいいし、働きっぷりもバリバリ。
修理好きな社長は、タン君を弟子のように扱い、日本語も「正確な言葉を使え!」と熱心に指導していた。
そんなある日、タン君が深刻な顔で相談に来る。
タン君:「社長、すみません、相談があります」
社長:「“すみません”じゃなくて“申し訳ございません”だ」
タン君:「はい、申し訳ございません。ご相談があります」
社長:「よし、完璧!で、何の相談?」
タン君:「ベトナムの領事館に行きたいのです」
社長:「え?何のために?」
タン君:「共産党の定例会に参加するためです」
…共産党?!
一瞬にして社長の頭には、かつての苦い共産党時代の記憶がフラッシュバック。さらに最近のニュースで見た“中国共産党スパイ”の文字が脳裏に浮かぶ。
「まさか…タン君はベトナム共産党のスパイ?!」と妄想スイッチが全開に。
社長:「もしかして、家族のためじゃなく、国や共産党のために来たのか?」
タン君:「はい。方針と計画に従って任務を果たしています」
はい、アウトー!社長の中で“スパイ確定”の鐘が鳴り響いた。
翌日、組合の理事長を呼び出して事情を説明。しかしタン君はケロっとしてこう言った。
「“使命”“任務”って言葉は、社長が“正確な日本語を使え”って教えたから使っただけです」
さらに「共産党員なのは確かですが、田舎の末端で何の権限もないです」とオチをつける。
通訳のヒエンさんも補足。「やめられない理由は、脱党すると子どもの将来に悪影響っていう噂があるからですよ」と説明。
社長、赤面。「…昔のことを思い出して、つい過剰に反応してしまった…」。
考察(反省と学び)
- 過去に深く関わったものほど、逆に強烈なアレルギー反応を示すことがある。
- 外国人の言葉の選び方は、背景や指導の影響を受けることがある。
- ベトナムでは党員であることは珍しくなく、スパイ認定は短絡的すぎる。
この一件、ただの笑い話に見えて、実は偏見・言語の壁・文化背景が絡み合った人間心理の縮図だった。
※本記事は、書籍『理解して笑うベトナム人技能実習生の世界』より抜粋・再構成したものです。詳しくは本書をご覧ください。